◆◆クラフト史・頼 空陀◆◆


   〜草創期〜  
     

   1970 年当時、国学院大学フォークソング同好会に籍を置く同学年の4人でバンドを結成。
後に『クラフト(苦羅芙徒)』と命名。
当時のメンバーは、
飯野一雄(ドラム)…神奈川県出身、
三森丈夫(エレキベース)…栃木県出身、
三井誠(アコースティック、エレキギター)…熊本県出身、
松橋忠幸(アコースティック、エレキギター)秋田県出身、
全員ヴォーカル、ハーモニーが出来るグループを目指す。

 大学時代はCS,N&Y のコピーや三井作曲、飯野、三森作詞のオリジナル曲等をレパートリーとして
ライブハウス等で活動する。この頃のクラフトのコーラスワークは、
三森のハイトーン、三井と松橋のファルセットヴォイス、飯野の低音など、
4人のハーモニーは大学バンドの中では群を抜いていて、
アマチュアバンド仲間の間では大変注目されていたようである。

 在学時代にニッポン放送の「ヴァイタリスフォークヴィレッジ」のコンテストで入賞。
その時の作詞指導が、のちにデヴュー曲『友あり遠方ゆえ来たらず』の詩を書いてくれた
作詞家の岡本おさみ氏である。
またこの時期に、のちにたくさんの詩を提供してくれることになる木村和夫と出会う。
同時期に、「ヴァイタリスフォークビレッジ」のオーディションを受け、
1年余りに亘って岡本氏の師事を受けていた木村和夫は、同氏の紹介により
クラフトの作詞を手掛けることになる。
初めてクラフトのメンバー飯野一雄と木村和夫が会ったときには、
クラフトはプロになるつもりはないと聞いていたが、詩を使ってもらえるならと、
クラフトの詩を書き始める。

 余談であるが、クラフトデビューアルバム「ふつつかながら」に収められている
「春はまだまだ」は、岡本氏から井上陽水への提供を進められたが、
木村和夫が紹介されていたクラフトへの提供を望んで生まれた曲である。

 その後、4人は大学卒業と同時にプロデビユーを目指すことを決意し、
大学の1年先輩、石塚道義氏にマネージメントを託す。
しかしながら、事はスムーズには進まなかった。
メンバーの一人、松橋忠幸が事情により郷里に帰らなくてはいけなくなり、プロ入りを断念。
替わりに急遽大学後輩の平原靖夫(ギター)…東京都出身、が1 年間の代打という約束で加入。
平原靖夫の加入により、今まで通りのコーラスワークを維持する事が出来たのは
デヴューアルバム制作のためには幸いであった。
 1973 年4 月、正式に『クラフト』としてワーナーパイオニアレコードより、
シングル曲『友あり遠方ゆえ来たらず』、アルバム『ふつつかながら』をリリースする。

 このころのクラフトは、全曲三井の書き下ろしで、作詞はほとんど木村和夫が担当、
フォークというよりはアメリカウエストコースト系に近いサウンド、
日本で言えば『ハッピーエンド』の流れを汲むスタイルを目指していた。
一枚目のアルバムにはその様子が色濃く顕われている。
ただし、アルバム中の「サーファーガール」だけは、
The Beach Boys のカヴァーで、これはプロデユーサーであり、
クラフトを見いだしてくれた大恩人、パシフィック音楽出版(当時)の朝妻一郎氏の提案であった。

 1 年後、平原が脱退。替わりに大学時代の同好会の友人、
森谷有孝(ギター)…神奈川県出身、が加入。